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第86回体験発表

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体験発表者

23歳 男性 公務員
躁うつ病

体験発表

私の病名は躁うつ病だ。いつそれが発症したのかは分からない。
ただ、生まれて初めて自殺しようと思った時のことは今でもはっきりと覚えている。真夏の深夜。家族みんなが寝静まり、セミの鳴き声だけが響き渡る家の中。私は階段の踊り場の上に立ち、壁に備え付けられた冬物洋服を掛けるためのフックを黙々と眺めていた。
「どうすれば確実に、出来るだけ楽に死ぬことが出来るのか」を。

当時の私は中学3年生、受験期の正念場である。私は県立の難関校合格を目指し、毎日塾に通っていた。私の通う塾は多くの生徒を私立や県内の偏差値の高い高校に進学させた実績を持つことで有名なところだった。
ただ反面、体罰黙認の非常にスパルタな塾として有名でもあった。最もスパルタな塾講師が数学担当だったが、最悪なことに私は理系科目が致命的なまでに苦手であった。
怒鳴ることなど日常茶飯事、机を蹴る、椅子を投げる、首を絞めることさえあった。これは全て私が体験したことだ。臆病ですぐパニックになって頭が真っ白になってしまう自分は、その講師に怯え単純な問題さえ解くことができなくなってしまった。
学校での数学の成績は低下し、(この塾では79点以下の点数は認められない)、塾からの数学の宿題-慶應やら早稲田やらの過去問-なんぞ当然解けるわけがなく、追い詰められノイローゼになった自分の心に初めて自殺願望が芽生えた。

日々学校の窓を眺めては、飛び降りようと考えたり、自宅の階段の踊り場やベランダで首を吊ろうと考えたりした。結果はご覧のとおり死ななかった訳だが。今を思えば逃げ癖のある自分が、自殺するという新たな口実を見つけただけに過ぎなかったのだろう。
結局両親に相談して塾を変えてもらい、志望校には無事合格することができた。嬉しかった。文字通り死ぬ思いで受験勉強に励んでいた自分にとって、言葉にできない嬉しさがあった。

しかしその時私は知らなかった。この喜びがぬか喜びに過ぎないことを。憧れの高校での学校生活。勉強・部活・友人関係、当初は実に順調であった。しかしその生活も僅か1年半足らずで発症したある症状により崩されることとなる。
それは、頭痛、そしてそれから引き起こされる微熱である。いつから発症したか、これも正直なところよく分からない。ただ、この二つの症状-頭痛や微熱が引き起こす体のだるさは授業の集中力の低下を引き起こし、運動部であった部活動に大きな支障をきたすようになった。早退する日も日増しになった。
元々学力の高い学生が集まる高校に無理して入学した上にこのような体たらくでは、他の生徒との成績は大きく引き離されるのは自明の理であった。運動は苦手、不器用、容姿は冴えない、性格は内向的、劣等感の塊のような自分の最後の砦「成績優秀」もあっさり破れてしまった訳である。
レベルの高い授業にもついていけなくなり、早退が多いため学校での自分への評価に妙に自意識過剰になる。学校での居場所を失った自分がたどり着いた先は、学校生活の落第者が通る王道コース-不登校であった。

サボることには人一倍厳しく、何かにつけてすぐに逃げる奴と私のこと決め付けている両親、特に母(実際そのとおりな訳なのだから反論のしようがない)のいる自宅にいられる訳はなく、親には学校へ行く振りをして、近場の公園等で時間を潰すことが多くなった。
1年生の時はそれ程でもなかったが、2年になるとその頻度が顕著になった。2年生半ば、学校の文化祭直後、自分の心に自殺願望が再び芽を出した。自分を殺すためだけに包丁を買い、遺書も書いた。でも死ねなかった。自分の心臓を貫く勇気がなかった。
自殺に失敗した私は、逃げた。旅行用のリュックに衣料品や食料を自転車に積み込み、そしてバイトで貯めた5枚の福沢諭吉を握り締め、やはり文字通り逃げたのである。

どこへ行くつもりなのかは全く考えていなかったが、どこかで自殺するつもりだったのだろう、バッグに新聞紙に包まれた包丁を入れていた。全くもって笑えない話だ。明け方私は家族に見つからぬようにこっそりと家を出た。前述のとおり方角を決めなかったが、進路は自然と山梨の方へ向かっていた。
山梨の山道へと足を踏み入れる頃には既に日は落ち、夜のとばりが下りていた。川の水の音。虫の鳴き声。そして私が漕ぐ自転車の車輪が回転する音。あの時の光景を私は今でも思い出す事が出来る。
車は通らない。人家はない。ただ目の前には闇のカーテンが広がっていた。その時私は初めて「一人」を知った。真っ暗で、自分以外誰もいない静かな世界。怖かった。ただ無性に寂しく怖かった。
その後何とか山を越え町に辿り着いた私は公衆電話で親に思い内を吐き出した。翌日親の迎えで自宅へ帰り、その後一悶着あった末、私はうつ病ではないかという判断を下した学校の養護教諭の紹介で国立病院の精神科に受診した。長くなってしまったが、これが私がうつと向き合う始まりである。

その後高校をかえることになったものの、何とか無事に卒業し、専門学校に入学。専門学校を卒業して1年間就職浪人した後、地元の公務員に採用された。ただし、うつ病経験者のため一時内定取り消しを受けたというおまけがついたが・・・とことんトラブルに縁のある男だと我ながら思う。
実際にうつが原因で今回含め3回休職をとり、計10ヶ月程度仕事を休んでしまっている訳だから内定取り消しの判断を下した人事担当者の判断は間違っていなかった、と私は述懐している、というか誠に申し訳ない。

今回三島森田病院に入院したきっかけは、森田療法を知っている地元のかかりつけの精神科医の紹介である。自己嫌悪に苛まされ、自殺願望に「とらわれて」しまい、にっちもさっちもいかなくなった私は溺れる者は藁をもつかむ気持ちで、両親の助けを得てこの病院に入院した訳である。両親にはいつも迷惑をかけっぱなしだ。ありがとう、そしてごめんなさい。

ともあれ私は三島森田病院に入院し、即日臥褥に入った。何もしないという無為な時間が何よりも嫌いな私は僅か半日で嫌になった。おまけに入院翌日は私の誕生日であった。私は臥褥中に誕生日を迎えるという恐らく稀でしかも全く嬉しくない体験をした。
前述のとおり半日で苦しくなった私にとってその後の7日間は地獄だった。捕らえられ、軟禁される人の気持ちが分かった気がする。小説の資料価値としては貴重だが、二度と体験したくはない。それでも音は上げなかった。逃げたくなかったからだ。

臥褥明け後、軽作業(草むしり)を経て重作業期へ。初めての農作業、小学校以来久しぶりの竹細工作り。不器用で要領の悪い私はいつも指導員さんに叱られてばかりだった。褒められた記憶が全く思い出せないほど叱られた。
けれどめげなかった。めげなかったと思う・・・多分。逃げっぱなしの人生を送ってきた自分だからこそ、入院生活中は「逃げない」を目標に掲げた。いつまで経っても上達しない耕運機や畝作りにも懲りずに果敢に挑戦した。結局最後まで上達しなかったけれど。

入院中自殺願望は覚えているだけでも二度ほどあったが、何とか自力で乗り越えた。集団生活の方は、元々曲者ぞろいの四人兄弟六人家族という現代では大家族の部類に入る環境の中で育ってきた為それ程苦ではなかった。自分なりに馴染めたんじゃないかなぁと思っている。それでも愛猫がいる自宅は恋しかったけれども。
職場には二週間に一回連絡し、一度だけ顔を出した。職場の上司や先輩は優しかった。南こうせつの「神田川」ではないけれども、その優しさが私には怖かった。

主治医である内山先生は、森田療法を「漢方薬」とおっしゃっていた。健康的な生活リズムを保つことで、自然と他の症状を和らげる。アラカルト-特効薬ではなく、定食屋のメニュー-万能薬だと。
森田療法が漢方薬や万能薬となるのは結局は自分次第だと思う。どれだけ怯まず前向きに自分の壁に立ち向かっていけるか。

森田療法についてや森田療法で学んだことについて、長々と語る必要はないと私は考えている。森田療法は頭で理解するモノではなく、体で覚え染み込ませるものなのだから。
だから私が退院後しなければならないことはただ一つ、ちゃんと仕事に行くことだ。毎日休まず仕事に通い続けること。例え自己嫌悪や恐怖にさらされても、酷い頭痛に苛まされても、微熱体がだるくても、自殺願望が目覚めても、そういう気分を無くそうと無駄な努力をせず-一波をもって一波を消さんと欲す、千波万票こもごも起こる-己の中に生ずるあらゆる気分を素直に受け入れつつも気分に流されず、あれこれ考えず、悩まず仕事に行け!-あるがまま・目的本位-である。

成果は語らず、行動で示すもの。私にとって森田療法は終わっていない。むしろ、これからが始まりなのだ。
しっかりと大きく胸を張り、前を向いて歩こう。私に「休み」はもう必要ない。生まれたからには生きなきゃいけない。生きるためには働かなければならない。当り前だけど、大切なことだ。
7年前暗闇の中、山梨の山道を自転車で登っていた時目の前は闇のカーテンで閉ざされていた。その時私はそのカーテンの存在に怯えていた。そのカーテンは己の心そのものだったから。今私の心の中に闇のカーテンは、もうない。

私の心のうつは無くならない、一生付きまとうだろう。うつは雨と同じだ。ある日突然降ることもあれば、ぽつぽつ降り出すこともある。止むかもしれない、止まぬかもしれない。でも止まない雨はない。だからいいんだ。そういうものなんだよ。だから共生して行こう。

来年の自分はどこに立っているのだろうか。将来を予言することはできないが、うつや現実問題から逃げず、一生懸命仕事に邁進している自分になれるよう一生懸命生きていこう。

講話

今まで大変な苦労をされたわけですね。さぞ苦しかったろうと思います。そういう中で就職されたのは本当に立派なことだと思います。

さて、あなたの病気は躁うつ病ですね。「躁うつ病」と「うつ病」は別個の疾患ですが、この両者を合わせて「気分障害」と呼ばれています。躁うつ病は躁状態とうつ状態を繰り返すものです。うつ病はうつ状態のみのものです。

躁うつ病は若年発症型で性格としてはいわゆる循環気質、つまり明朗・社交的・気分屋的な性格の方がなりやすいものです。現在の国際的診断基準では「双極性障害」と呼ばれます。

他方、うつ病は中年男性に多く見られます。自殺はうつ病の代表的症状ですが、女性では年齢が高くなると自殺率が高くなっていくのに対して、男性では40代から50代にピークを迎えます。
うつ病は環境面に左右されやすく、中年男性での自殺の出現率が高いのは不況下での倒産やリストラの影響が大きいと言われています。世界的に見ても男性の方が女性よりも自殺率が高い。男性の方が女性に比べて弱いんですね。例えば、配偶者が亡くなった場合、夫が妻に先立たれた場合男性はガックリするのに対して、夫が先に亡くなった場合残された妻は元気になったりすることも往々にして見かけます。

うつ病は、いわゆる執着気質、つまり真面目・几帳面・責任感が強い性格の人がなりやすいものと言われてきました。しかし最近は自己愛が強いと言うか自己中心的な性格の人がうつになることも多くなり、「新型うつ病」などと呼ばれます。数十年後は遺伝子レベルでもっと解明されると思います。

うつ病の治療には薬物療法と精神療法とがあります。薬物療法はいわゆる抗うつ薬が主体となります。抗うつ薬は元気がないわけだから元気にする、つまり気分を一方的に上げるものです。しかし、治療で気分を上げすぎてしまうと躁状態になってしまうこともあります。ですから抗うつ薬の使用は慎重に進めていく必要があります。うつ病の精神療法の代表は認知療法ですが、うつ病の回復期には森田療法も行われます。

躁うつ病の薬物療法としてはリチウムやカルバマゼピンなどの気分安定薬が用いられます。気分安定薬は気分を下げたり上げたりするというよりも症状の波、気分の波を平らにしていくものです。

躁うつ病の躁状態の場合、精神療法は行われないことが多いです。したがって本来森田療法は躁うつ病に適してはいないと言われますが、薬物療法で気分を十分コントロールした上で森田療法を行うと社会復帰前の実地訓練として有用と私は思います。

森田療法と似たような治療に行動療法がありますが、森田療法は漢方薬に似ており、行動療法は西洋薬になぞらえられます。漢方薬は滋養強壮の効果があり免疫力をアップさせますが、森田療法も症状のみをターゲットとせず生活改善をめざします。
それに対して行動療法と西洋薬は症状のみをターゲットにします。西洋薬ではたとえば肺炎の患者に抗生物質を投与し直接原因菌を死滅させます。行動療法でも手洗い強迫や確認行為など一つ一つの症状をターゲットにして1回1回克服をめざします。

食事で例えますと、行動療法は一品料理のようなものであるのに対し、森田療法は定食のようなものと言えます。バランス良く食べるには定食の方が良いです。森田療法では作業、日記、茶話会など一通りのメニューを全て行ってもらいます。すなわち森田療法は定食メニューのようにすべての生活活動において一定のペースで行動することを目指していきます。
気分が良くても悪くても行動し、すべてのメニューをこなしてもらうことにより、個々人によって異なる苦手な行動を各自克服してもらうわけです。

躁状態の場合だと発想があれこれ湧いたり24時間動き回りたい状態になりますが、森田療法は一定のペースなのでそれらの行動を制御します。
うつ状態の場合はつい休みたくなりますが、森田療法では休み癖が出来てしまわないように朝から一定のペースで目的本位に行動してもらいます。以上のように躁うつ病やうつ病は一定のペースを守るということがとても大事なのです。

さて、あなたも躁うつ病として気分の浮き沈みを体験しました。死にたいつらい気分になることもあればうきうきするときもありました。
薬物療法でそれらの気分を安定させた上で、今回森田療法を施行して実績をあげてきたわけです。
今後退院して職場復帰した暁にも、気分にとらわれることなく一定のペースで淡々と行動していけるよう願っています。

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