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第82回体験発表

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チョコレートムース
バナナフリッター
コーヒー

体験発表者

20歳 男性 無職
対人恐怖症

体験発表

僕の症状は視線恐怖と言われるもので、具体的に言うと人の視線に恐怖を感じたり、自分の視線が相手に迷惑をかけているのではないか、と思う事です。

視線恐怖になったキッカケは、中学3年生のある日の事でした。その日はクラスの席替えがあり、その時僕はグッスリと眠っていました。時間がたち、起きて黒板を見てみると、席が教室のど真ん中に決まっていました。そして隣の席を見てみると、僕が大好きだった女の子の名前になっていました。その子と席が隣同士になった事は大変嬉しかったのですが、当時僕は肌荒れをしていて人に顔を見られるのが嫌でした。特にその子にだけには絶対に近くで顔を見られたくなく、悩んだ結果、次の日から学校に行くのをやめてしまいました。

そして、異変がおきはじめました。学校をサボっている友人と遊んでいた時の事です。いつも通り目を見て会話をしているのですが、おかしな違和感があり、何かが変だと思うようになりました。日がたつにつれてその違和感は大きくなり、「人の視線が怖い」、「自分の視線が相手に迷惑をかけているのではないか」と思うようになりました。

最初は単純に、肌荒れが治ればよくなるだろうと思っていたのですが、時が経ち肌荒れは治ったものの、その違和感は消えず、ますます増大していきました。どうすれば治るだろうかと思い、インターネットで調べたところ、自分は視線恐怖ではないかと特定する事が出来ました。それからの毎日は、症状をどうやって治すかの事だけを考え、ありとあらゆる方法を試しました。しかしどんな方法をしても、一向によくなる気配はなく、治そうとすればするほど悪くなっていきました。

そして高校2年生の頃、ある出来事が起きました。いつも通りバスの一番後ろに乗って周りをボーと見ていると、ある一人の女性に目が止まりました。あの人は一体どこを見ているのだろうと思い見ていると、その女性の目が横にギョロと動きました。その時僕は、その女性の目が魚のマグロの目に見え、とても強い不快感に襲われました。この時僕は、もう完全に自分の方法では良くする事ができないと思いプロの医者に任せようと思いました。

その日を境に病院に行きはじめたのですが、大体の病院が5~6分で話を聞き、薬を出されるだけだったので僕は、納得ができず5つくらい病院を回って、やっと理想の医者に巡り会えました。が、その先生が遠くの病院に行く事になってしまい、大変落ち込みました。どうしようかと考えたところ、前に読んだ森田療法の本の事を思い出し、近くに病院はないだろうかと思いインターネットで検索したところ、三島森田病院が出てきたので即入院を決めました。

『三島森田病院での体験』

一番初めの臥褥では、とにかく「退屈」だなとしか思いませんでした。一週間寝たきりは、とても無理だったので3日でギブアップしました。先生に帰るか入院するかと訊かれ、迷わず入院したいと言いました。僕にはそれしか道はありませんでした。

軽作業期では雑草とりをしました。こんな事をしていてはたして意味はあるのだろうかと思ったのですが、とにかくやりました。

重作業期になり、先輩方と会話をするようになりました。皆さん本当にいい人ばかりで話をするのが楽しかったです。僕は、運がよかったのか本当に優れた先輩方と作業をする事ができました。ある先輩は、とても作業能力が高く、僕に指導をたくさんしてくれました。もう一人の先輩は、本当に優しくいろいろなアドバイスをしてもらいました。指導員さんにも恵まれました。ある一人の指導員さんは風邪をひいてとても体調が悪そうだったのですが、いつも通りのように作業をこなし、単純にすごいなと思いました。僕もその指導員さんの行動を見習い、症状が強く出た時も体調が悪い時も1日も休みませんでした。

『森田療法で得た事』

僕にとってこの3ヵ月間は、とても勉強になった3ヵ月間でした。毎日規則正しい生活を送り集団で行動する事によって規律を覚え、精神を鍛えられました。症状も最初のうちは強かったのですが、日がたつにつれ集中力が上がってきたのか、作業の時は作業の事だけを考えるようになってきており、視線恐怖の症状がグッと楽になりました。とにかくやっている事に集中してやるのが大切なんだなと実感しました。森田療法をする事によって僕は本当に多くの事を学びました。心から感謝しています。

最後になりますが、森田の先輩方、先生、指導員さん、ナースの皆さん、職員の皆さん本当にありがとうございました。

講話

あなたの体験発表は非常に堂々とした態度で、どこが対人恐怖なのかというふうに見えますが、それが対人恐怖症というものなのです。あなたはいろいろな病院へ行きましたが、薬物療法だけでは飽き足らなくて、森田療法を調べて当院に来られたのですね。

臥褥では3日間でドロップアウトし、退院するか入院を継続するかを聞いたところ、あなたは入院を続けたいと言いました。それは良かったと思います。臥褥は、森田療法のなかでは最も重要なプロセスの一つですが、臥褥を最後まで続けないと森田療法はできないというわけではありません。私が以前所属していた浜松医大における研究によると、臥褥を最後まで行った人たちと、臥褥を途中でドロップアウトしたがその後も森田療法を継続した人たちとを比較したところ、治癒率にさしたる違いがなかった、という結果が得られています。

さて、あなたには森田療法のプログラムの中でいろいろ体験してもらい、症状あるがままに目的本位に行動するという森田療法の極意を学んでもらいました。臥褥を除けば典型的な森田療法の経過と言えましょう。しかし、臥褥を3日間でドロップアウトしたときも、どうにも苦しくての挫折というわけではなく、苦しいことから逃げるという甘えだったかもしれませんね。
最近はあなたのように世間の荒波にもまれた経験がなく、物事をすぐあきらめてしまうような若者が増えてきたように思えます。森田療法の入院は単に神経症症状を良くするだけではなく、未熟な点を成長させるための教育的効果も持っていると思います。そういう点で、あなたは森田療法を受けてよかったと思います。

創始者の森田正馬が森田療法を完成させたのは、実に46歳の頃です。森田は最初から神経症の患者にではなく、統合失調症やその他の病気に対して作業療法の経験を積みました。他方、神経症者に対しては、催眠療法など当時の最先端の治療を施し、試行錯誤しましたがなかなかうまくいきませんでした。また森田は神経症の患者を精神科の病棟に入院させましたが、作業療法にうまく乗ってきませんでした。神経症の患者を通院で治療して作業療法を試みましたがやはりうまくいかなかったのです。
1919年頃、たまたま森田が勤めていた病院の看護婦長が強迫性障害で、自宅の2階に住まわせて治療したところ、非常に良くなりました。そのことからヒントを得て、自宅を開放して寺子屋式に治療を行い、森田療法が完成したのです。当時の森田は慈恵医大に勤務しており、昼は不在でした。夜や休日にのみ患者と関わったのです。昼は奥さんの久亥が患者さんを一手に引き受けて世話していました。つまり一般家庭で言えば、あたかも森田が「父親」奥さんが「母親」としての役割を果たしていたのです。そこで森田療法は家庭療法と呼ばれることもあります。

現代の入院森田療法でも、主治医を「父親」、指導員、看護師を「母親」となぞらえることができます。同僚患者は「兄弟」のようになぞらえることができます。若い人はこのような家庭になぞらえられるような環境で入院生活を送ります。周囲の者が家族のような役割を果たしてくれて、子供が育つようにその中で成長させてくれるわけです。つまり、入院森田療法は神経症の治療でもありますが、それよりまして重要なのが未熟な若者を一人前の成熟した人間に成長させていくという全人教育としての側面ではないでしょうか。

あなたには周囲の意見を素直に受け入れていくという長所があります。今後の課題は、すぐにくじけない粘り強さを身につけていくことですね。次の就職先はどんなところであれ、長続きできるように辛抱強く努力していき、ここで学んだことを生かしてほしいと思います。これからも先輩や上司に叱られると思いますが、叱られても粘り強く目的本位に行動していけば必ず活路は開かれると思います。

退院後の社会参加を楽しみにしています。これからもここでの体験を忘れずにがんばってほしいと願っています。

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